立ち番は自分のため

 サラリーマン時代何回も何回も立ち番をやってきた。元々会社が決めたあるスローガンに沿ってそれを一般社員に示すために行われるものである。特に定期的に必ず行ったのは安全の立ち番だった。今から思うと本当に滑稽とも言える儀式?だったが、会社を離れた今でも朝の小学生の登校などに大人が立ち番をやっているのを見ると、それはそれで一定のアピールがあることなのだと思う。しかしこの立ち番は他人のためにアピールをしているのではなく、本当は自分のために行っているのだと最近は思う。例えば安全の立ち番をやっているのは皆に安全のアピールをしているわけだが、実際はそうしたアピールをする人が一番安全を大事だと考えて肝に銘じているということではないだろうか?そういう意味で言うと昔学生時代に学生運動がさかんであったが、大声で叫んでいる学生たちは皆に帝国主義はあかんぞということをアピールしているが、実際は自分に自分の主張が正しいことを再認識するために叫んでいるのではないだろうか?またサラリーマン時代に毎月1回皆の前で朝礼を行ったが、聞いている聴衆はほとんど関心がなく、一方しゃべっている私は一生懸命に自分の思いを伝えようとしている。一番朝礼の内容を理解して自分の活動に生かそうとしているのは実はしゃべっている本人だと思うわけである。こうして考えると時として人は他人に影響を与える行動を起こすが、本当は自分自身がかくあるべきと決めた行動がたまたま人に影響を与えたということかもしれない。他人のためにだけ得を与えるのは難しい。自分が得を得て初めて相手に得を与えられるのだろう。

立ち番は人の為と言いながら自分に一番言い聞かせていた

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